177/55のもやし系男子が『プリズナートレーニング』を読んで筋肉をつける日記(改題)

家族がいない。ひたすら仕事が忙し過ぎて、話す相手も時間も無い。…だったらブログでも書くか!

<harmony/>の主題について。(ハーモニー 映画版の感想です)

 

 

先々週は日本橋、先週は新宿のTOHOシネマズで鑑賞。

2回目は友達も連れて。

 

2回ともモロ泣き。

 

理屈っぽいレビューはきっと他のネット評論家さん達が一杯書いてる気がするから。

ここでは自分なりの角度での感想、書きますね。

 

以下、もちろんネタバレなので、興味ある人は原作か映画を見終わってから読んでくださいね※

 

さようなら、わたし。

さようなら、たましい。

もう二度と会うことはないでしょう。

 

俺が泣いたポイント。

この映画のラスト。

それはこの作品のテーマでもある。

 

そのテーマとは、伊藤計劃氏の目に映る)自らの死。

 

俺はこの原作者がこの作品を執筆中にどんな病状だったのか、知らない。

もちろん、生きることを諦めてたなんてありえないと思ってるし、だからそんなことを言いたいわけでは決して無いし、そもそも何も知らない人間がああだこうだと言うべきことでも無いのかも知れない。

 

ただ、例えばユートピアだとか、SF的に斬新で知的好奇心を大いに刺激する未来の人間像だとか、そういう側面は確かにあるとしても、この作品の真の主題はそういうことではないと思う。

 

その理由の説明には、俺がこの映画を観る少し前に、熊倉千之氏の著書を立て続けに読んだ影響が大いにあることを述べた方が早いかもしれない。

それは日本語についての評論で、今回に関連する部分のみ端的に言うと、『究極的に日本語の本質が語り手の言語である』というもの。

(詳しくは熊倉氏の著書をお読みいただければと思います)

その中で、山月記の主題について、中島敦が眼前に迫る自らの死を描いたものだという分析があり、それも俺の考えに大いに影響している。

 

<harmony/>も、日本語の本質が語り手の言語であることを踏まえて鑑賞すると、たった一つのメッセージが鮮明に伝わってくるのだ。

自らの死というテーマが。

 

俺は知人の死を体験したことは無い。

死について触れられた何冊かの本を読んだり、何人かの専門家の話を直接聞いたりしたことならある。

死後の霊魂の有無とか、輪廻転生の有無とか、それなりに説得力のある話はあった。

そういうオカルトじゃなくて、哲学的な意味でも、例えば死後も誰かの心の中で生き続けることとか、自分自身ではなくても自分が生み出した物があり続ける限り自分も生き続けることとか、誰かのためになら死ねることとか、色々な考え方があるし、そういうのも真実だと思ってる。実感までは無いけど。

 

確かに、もし直接会ったことがなくてもその人物が誰かの心で生き続けられるのなら、キリストや釈迦や聖徳太子坂本竜馬。そういう人物は何百、何千歳になっても生きていると言える。

直接知っている人の中だけでしか本当には生き続けられないとしても、家族や友人の中で死後も何年も生き続けられる。

自分の死後も作品が生き続ける限り自分も生き続けるのなら、やはりその生命は永い。古代の壁画の作者とか。

あと、大切な目的のために死ぬのなら進んで死ねるというのも真実だと思う。

 

でも、それでも、果たして自分自身が死ぬときに、本当にそんな観念が死の意味になり得るのだろうか?

 

世の中には他人の死を描く良質なドラマもノンフィクションもあるし、素直に感情移入して泣ける。

でも、それはあくまでも自分は生者として、他人の死を見ているに過ぎないのではないだろうか?

 

自分が死ぬというのがどういうことなのか?

そのとき、他の誰かから見て自分の死が感動的だったとして、だから何なのか?

自分が死ぬことで誰かが、あるいは世界が救われるとして、死ぬ本人にとってはそれが何なのか?

 

この作品は、その一つの答えだと思う。

ハーモニープログラムによって、世界中の(ほぼ)全ての人間の意識が消滅すること。

それは、客観的に捉えて観念的に記述すれば上記の通り。

でも、それを記述する語り手の視点の存在に思い至ったとき、それは鮮烈な一つのテーマを帯びていると言える。

これは、主人公の霧慧トァンの視座に立ってみれば、自分が死ぬ、ということ=世界中の人全ての死(=自分が死ねば、その瞬間に自分の世界の全てが終わること)を表現している物語なのだと、俺は強く感じた。

 

そして、もはや言うまでも無いが、それは故伊藤計劃氏が結果的に死を前にしてこの作品を遺したことに通じる。

 

この作品の作者が伊藤計劃氏であることを抜きにしてしまっては、この作品の真の主題は見えないのだ。

 

そして、その伊藤氏によってこの作品に込められたあまりにも純然たるテーマ、『自らの目の前に在る死』とその伊藤氏自身の認識に共鳴したとき、感じたのはただ一つのこと。

 

それは、ただひたすらに悲しいということでした。

 

こんなに悲しい映画を俺は観たことがないです。

 

これは、他人の死を見て悲しむのとは次元が異なる悲しみです。

カタルシスに逃れる術も無い(何せ自分の死だから)、命が震えるような悲しみでした。

 

 

感想は以上。

(もし的外れだったら、俺もいつか天国に行ったときに伊藤氏に勝手な感想書いたことをお詫びしよう。)

 

ブルーレイとか出たら買うな~、これ。

再読したくて本棚を探したけど見つからね。また買おう。

再読したら、きっと色んな人物とか、御冷 ミァハが本を焼く意味とか、その焼かれた本のこととか、もっともっと深くこの作品の意味が読み解けるだろう。